自己表現しづらい状況
社会においてタブー視される同性愛なので、同性愛者は肩身の狭い思いをしています。
皆自己表現ができずに、公の場で公表することなどは叶いません。
そのため、世間からは冷たい目で見られることも多く、プラスのイメージを持ってもらえないことも多いでしょう。もし同性愛者だと知られるとちょっとしたことでからかわれたり、軽蔑されてしまうという辛い経験がある方もいるでしょう。このような状況下で自己表現できるわけもありません。
このような現実の裏には、メディアの偏向報道が関わっていると思います。
主にマスコミなどが思い浮かびますが、テレビなどでも見られることです。TBS系のバラエティーでゲイのカップルを紹介しているコーナーがあったのです。それは数年前のことでしたが、今でも色濃く思い出せます。
そこで私は驚きました。ゲイのカップルが手をつないで談笑するシーンで、なぜか「笑う」効果音がはいっていました。会場の人の笑いではなく、意図的な効果音声での笑いです。これは同性愛者を笑っても仕方のないものと捉えていると思うほかありません。このようなことを日々マスコミは流しているのです。
一日に多ければ5回以上は同性愛者を笑う映像を流すマスコミに大きな問題があるとしか思えません。これを偏向した味方と言わずしてなんと言うでしょうか。私としても大きく考えされられる問題でした。
同性愛というものは一般常識から外れていると見られるのが常です。その価値観は常日頃からのマスコミの「刷り込み」であったり、「子供が作れないから」などの機能面から構成されます。 実際に自分が同性愛者だと告白すれば、職場や学校でははぶられる、陰口をたたかれることはもちろん、嫌がらせなどからその場にいられなくなるなどの事態まで待っているでしょう。 そういった事態があるからこそ、同性が好きだとは公言できないのです。自分から隠したいというわけじゃなく隠さざるを得ないというのが本音でしょう。 しかし隠すことで生まれる不利益もあります。 それは常日頃から生まれるストレスです。通常ならば気にかけなくてもいいところで労力がかかるので、一般人よりも遙かにエネルギーを使うでしょう。雑談をするにしても、自分の感性を隠して喋らなくてはいけないのです。そのため異性愛が当たり前という世間にあわして自分も異性愛が当たり前と思い込まなくてはいけないのです。 「どんなタイプが好きですか」と聞かれれば、どうでしょう。素直にいえるわけもなく、その本音を隠すストレスというものは思いの外大きいものです。 年齢が高くなればそれ以上のものが待っています。なぜ結婚しないのか、恋人はいないのか、などなどとあらゆる面で質問されます。答えを偽るか、黙秘するか。どちらにしろ疲れることは変わりありません。 それは相手が飽きるまで続けられ、自分というものを出せないようになってくるもの。だからといって全てを公開するというわけにもいきません。
同性愛者には世間に自分を公表しないために「もうひとりの自分」を作って演技している人が多いと聞きます。それを続けていると「本当の自分」と「もうひとりの自分」が混ざり合い、自分ですら勘違いしてしまうようになるそうです。 そのようなことを続けているうちに、演技することの辛さを感じることがだんだんと鈍くなり、諦めていってしまうのです。たとえそうならなくても、何も考えなくなって受け流すようになるだけでしょう。 自分が二人いるという二重性というものは、予想以上に精神にダメージを残します。同性愛者の自分は可笑しいんだと精神的に自分を責めるケースもよくあり、自分で自分を否定するということが起こるのです。これはとてもじゃないけど、受け入れられるものではありませんね。 そのような二面性を保持する中で、周囲と会話をしていると同性愛のことが話題になることもあるでしょう。そのときに同性愛は気持ち悪いなどと言われたとき、まるで自分自身を否定するように感じるそうです。さらに、その場で暴露しないためにも自分自身でそれに同調しなくてはいけないのです。もし少しでも反発したら「おまえもしかしてホモか」などとからかわれるならまだしも、以降疑い続けられるといったことになりかねません。 だから、話を合わせて笑って自分自身を侮蔑するしかないのです。尊い自尊心は傷つけられ、精神は追い詰められていくでしょう。 そこで気持ちを切り替えられればいいのですが、そこまで前向きに居る人が何人いるでしょう。傷つけられる同性愛者はたくさんいるのです。
このようにほとんどの同性愛者は、異性愛者として振る舞うために「もう一人の自分」を作り、社会に溶け込むよう努力しているのです。しかしその弊害として、自分と同じ同性愛者がとなりにいたとしてもお互いにそのことは判断できず、孤立してしまうという事態に陥ります。 それは同性愛者たちの出会いを阻害するようなことにもなるのです。同性愛者であるということを表現できず、共有する人を見つけることもできないので、自分が同性を愛しているということすら自分で認められずにいるのです。その点異性愛者の場合は周囲が異性を愛すという環境ができあがっているので十二分に異性を愛す自分を肯定できるはずです。 本来同性愛者である二人が隣にたっているのに、おのおのが異性愛者として振る舞うため、お互いを確認できないという事態に陥ってしまうのです。 同性を愛しているというのは同性愛者にとって大事なアイデンティティです。しかしそれを周囲に公表できないことで自分そのものを出せないと感じます。 人権とはそもそも自分そのままに生きると言うことなので、同性愛者にとっての人権が阻害されていると考えることもできます。このような自己表現が奪われる事態は差別としてとらえてもいいのではないでしょうか。 外国に比べて日本は同性愛に対しては寛容では?という見方がされていることがあります。しかし、現実には同性愛者というものを極力自分の見えない場所に押し込めることで、同性愛者に対して差別を行っていないという状況を作っているのです。 このような異性愛者でなくてはならないという強制力は、寛容と表現するのではなく差別と表現した方がより近いのではないでしょうか。 同性愛に対してのパッシングはアメリカなどでは頻繁に起こりえます。例えば98年にあったマシュー・シェパード(21)殺人事件などでも解ります。ワイオミング州の、ゲイ大学生であるマシュー・シェパードさんは、ゲイを装った二人のヘテロ男性に誘い出されて暴行され、しまいには頭蓋骨をピストルの台尻で殴りつけ砕かれ殺害されました。そのまま柵に縛って放置されていたというのです。これらの殺人事件の理由はなんと、マシュー・シェパードさんがゲイであるという一点だけだというのです。 これはアメリカが怖いという話ではありません。このようなことが日本で起こりえないのは、日本では同性愛者は見えないものとして扱われているからです。見えないから同性愛者に対しての差別がおこらないと一概に決めてしまってもいいのでしょうか。 しかし、日本でも同性愛者への暴行事件が起っているとききます。だからこそ、見えないとして決めつけるのではなく、人権の問題と認識し、きっちりと対処する必要性があるのではないでしょうか。 「同性愛はプライベートなことなのに、なぜわざわざ話そうとするのか」という発言も見受けられます。しかし、社会で同性愛者であることを表現できずに傷つく人がいるならば、これは社会の問題であるので話さざるを得ないのです。 同性愛者であることを悩み自殺する人がいるのも問題です。このようなことは同性愛者として生きられない環境に問題があるのではないでしょうか。
同性愛というものは一般常識から外れていると見られるのが常です。その価値観は常日頃からのマスコミの「刷り込み」であったり、「子供が作れないから」などの機能面から構成されます。 実際に自分が同性愛者だと告白すれば、職場や学校でははぶられる、陰口をたたかれることはもちろん、嫌がらせなどからその場にいられなくなるなどの事態まで待っているでしょう。 そういった事態があるからこそ、同性が好きだとは公言できないのです。自分から隠したいというわけじゃなく隠さざるを得ないというのが本音でしょう。 しかし隠すことで生まれる不利益もあります。 それは常日頃から生まれるストレスです。通常ならば気にかけなくてもいいところで労力がかかるので、一般人よりも遙かにエネルギーを使うでしょう。雑談をするにしても、自分の感性を隠して喋らなくてはいけないのです。そのため異性愛が当たり前という世間にあわして自分も異性愛が当たり前と思い込まなくてはいけないのです。 「どんなタイプが好きですか」と聞かれれば、どうでしょう。素直にいえるわけもなく、その本音を隠すストレスというものは思いの外大きいものです。 年齢が高くなればそれ以上のものが待っています。なぜ結婚しないのか、恋人はいないのか、などなどとあらゆる面で質問されます。答えを偽るか、黙秘するか。どちらにしろ疲れることは変わりありません。 それは相手が飽きるまで続けられ、自分というものを出せないようになってくるもの。だからといって全てを公開するというわけにもいきません。
同性愛者には世間に自分を公表しないために「もうひとりの自分」を作って演技している人が多いと聞きます。それを続けていると「本当の自分」と「もうひとりの自分」が混ざり合い、自分ですら勘違いしてしまうようになるそうです。 そのようなことを続けているうちに、演技することの辛さを感じることがだんだんと鈍くなり、諦めていってしまうのです。たとえそうならなくても、何も考えなくなって受け流すようになるだけでしょう。 自分が二人いるという二重性というものは、予想以上に精神にダメージを残します。同性愛者の自分は可笑しいんだと精神的に自分を責めるケースもよくあり、自分で自分を否定するということが起こるのです。これはとてもじゃないけど、受け入れられるものではありませんね。 そのような二面性を保持する中で、周囲と会話をしていると同性愛のことが話題になることもあるでしょう。そのときに同性愛は気持ち悪いなどと言われたとき、まるで自分自身を否定するように感じるそうです。さらに、その場で暴露しないためにも自分自身でそれに同調しなくてはいけないのです。もし少しでも反発したら「おまえもしかしてホモか」などとからかわれるならまだしも、以降疑い続けられるといったことになりかねません。 だから、話を合わせて笑って自分自身を侮蔑するしかないのです。尊い自尊心は傷つけられ、精神は追い詰められていくでしょう。 そこで気持ちを切り替えられればいいのですが、そこまで前向きに居る人が何人いるでしょう。傷つけられる同性愛者はたくさんいるのです。
このようにほとんどの同性愛者は、異性愛者として振る舞うために「もう一人の自分」を作り、社会に溶け込むよう努力しているのです。しかしその弊害として、自分と同じ同性愛者がとなりにいたとしてもお互いにそのことは判断できず、孤立してしまうという事態に陥ります。 それは同性愛者たちの出会いを阻害するようなことにもなるのです。同性愛者であるということを表現できず、共有する人を見つけることもできないので、自分が同性を愛しているということすら自分で認められずにいるのです。その点異性愛者の場合は周囲が異性を愛すという環境ができあがっているので十二分に異性を愛す自分を肯定できるはずです。 本来同性愛者である二人が隣にたっているのに、おのおのが異性愛者として振る舞うため、お互いを確認できないという事態に陥ってしまうのです。 同性を愛しているというのは同性愛者にとって大事なアイデンティティです。しかしそれを周囲に公表できないことで自分そのものを出せないと感じます。 人権とはそもそも自分そのままに生きると言うことなので、同性愛者にとっての人権が阻害されていると考えることもできます。このような自己表現が奪われる事態は差別としてとらえてもいいのではないでしょうか。 外国に比べて日本は同性愛に対しては寛容では?という見方がされていることがあります。しかし、現実には同性愛者というものを極力自分の見えない場所に押し込めることで、同性愛者に対して差別を行っていないという状況を作っているのです。 このような異性愛者でなくてはならないという強制力は、寛容と表現するのではなく差別と表現した方がより近いのではないでしょうか。 同性愛に対してのパッシングはアメリカなどでは頻繁に起こりえます。例えば98年にあったマシュー・シェパード(21)殺人事件などでも解ります。ワイオミング州の、ゲイ大学生であるマシュー・シェパードさんは、ゲイを装った二人のヘテロ男性に誘い出されて暴行され、しまいには頭蓋骨をピストルの台尻で殴りつけ砕かれ殺害されました。そのまま柵に縛って放置されていたというのです。これらの殺人事件の理由はなんと、マシュー・シェパードさんがゲイであるという一点だけだというのです。 これはアメリカが怖いという話ではありません。このようなことが日本で起こりえないのは、日本では同性愛者は見えないものとして扱われているからです。見えないから同性愛者に対しての差別がおこらないと一概に決めてしまってもいいのでしょうか。 しかし、日本でも同性愛者への暴行事件が起っているとききます。だからこそ、見えないとして決めつけるのではなく、人権の問題と認識し、きっちりと対処する必要性があるのではないでしょうか。 「同性愛はプライベートなことなのに、なぜわざわざ話そうとするのか」という発言も見受けられます。しかし、社会で同性愛者であることを表現できずに傷つく人がいるならば、これは社会の問題であるので話さざるを得ないのです。 同性愛者であることを悩み自殺する人がいるのも問題です。このようなことは同性愛者として生きられない環境に問題があるのではないでしょうか。
2011年5月11日